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長篠合戦の真実に迫る!歴史研究者乃至政彦先生と武田軍の作戦を大考察‼️
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- Опубликовано: 14 авг 2024
- ▼謙信×信長 手取川合戦の真実 (PHP新書)
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『長篠の戦い』信長は謙信の策略に嵌っていた……?
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【目次】
00:00 ご挨拶
02:41 長篠の戦い(設楽原の戦い)通説
07:03 武田の騎馬隊突撃
12:31 武田四天王全滅に関して
12:55 乃至先生のご考察①
23:31 「武田根切り」宣言する信長
26:14 信長の戦術
31:25 酒井忠次の奇襲作戦
33:44 乃至先生のご考察②
40:17 武田軍総崩れ
45:37 エンディング
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#どうする家康 #戦国時代 #歴史解説 #徳川家康 #織田信長 #武田信玄 #武田勝頼 #眞栄田郷敦 #五徳姫 #岡崎体育
織田軍が3万と言われていますが、明智光秀以外の信長の主な家臣が来ているのに、それしかないわけではない。膨大な伏兵がいたという説は説得力がある
最近、長篠設楽原の戦いについていろんな考えがあることを知って面白がっていたのですが、この先生の考えが一番面白く、刺激的で、説得略がありそうで、最高です。
説得力ありますね。 勝頼、馬鹿で無くて納得。 ありがとうございます。
乃至先生の解説で長篠合戦の今までの見方が変わりました。とても興味深いお話ありがとうございました。
武田びいきの自分としては、設楽原は悔しい戦いだけど、先生の説を拝聴し、救われた気分ですね。
信長は好きな武将ではないけど、認めざるを得ないですね。
配信ありがとうございます!
本の内容を乃至先生自らご説明していただけてとても楽しく見れました!
この戦いは長篠が取れなかった時点で撤退するのが一番だったんだと思います。
どういう戦い方をしても(例えば鉄砲合戦)破れたと思います。
長篠合戦の本来の姿が見えてきて合点がいきました。真田幸村の例えも分かりやすく、想像もしやすかったし、もしかしたら真田幸村は、長篠合戦を模して最後の戦いをしたのではないかを妄想してしまう程でした。洋の東西を問わず天才的な戦略をする人は最強であり、その後の運命もまた然り。
長篠合戦配置図で武田がどうして織田徳川の右翼に集中して回り込まないのか疑問でした。信長が馬防柵配置よりもっと全体的に計画的な戦い方をしたのは驚きました。天才すぎる。ありがとうございました。
なるほど、私も周り込めばいいんじゃないかと思ってたんですが、信長はそれを上回ってたってことですね。これまでの長篠の戦いの解説で1番腑に落ちました😊
面白過ぎました!いろんな事が合点していって・・疑問点も解けました。こういう戦術だったから圧勝したんだと・・後ろのもっと兵が控えていたなんて・・信長の想定内の懐の深さ広さに驚愕です。
いやいや面白過ぎる解説でした。疑問がすべて解決。
次回動画も楽しみ。
あれだけ重臣が何人も討死してるのは退却も出来ないような状況が作られたとしか考えられないのでしっくりくる解説でした
先生の説は説得力があって素晴らしい!
センゴクの勝頼も設楽原の戦いも描き方めっちゃ好きだったな
同じように引き込まれて鉄砲隊に殲滅されてた
最高にエキサイティングな解説、ありがとうございます👍😊👍。
「信長みずから首をさらしに来たこと」「馬防柵で怯懦の風を誤認させたこと」「防衛線の側面に隙を見せたこと」「後方配備の予備戦力の全容を包囲殲滅の一撃を加えるその時まで悟らせなかったこと」あたりの要素でもって、若き俊英・勝頼すら思い通りに釣りあげてしまった。これは信長が強すぎる。
長篠設楽原合戦の長年の疑問が氷解しました!勝頼はやはり凡将ではなかったし、山県昌景ら猛将が左翼に布陣して討死した謎も解けました。そして信長がカエサルに並ぶ戦の天才だということもわかりました。乃至先生のボードを活用した説明がすごくわかりやすくて納得です。素晴らしいプレゼンありがとうございます!この説に基づく映画ができれば面白そうです。
とても興味深いお話でした!
勝頼は馬鹿だとか、クズとか言われてたけど、そうじゃなかったというのは理解できました。どうする家康では織田、家康連合軍3万と言われてましたが、10万いたのではないかと、しかも鉄砲も3,000ではなく万を超えていたとなれば、武田軍勝ち目ないですね•••。信長圧倒的じゃないですか( T_T)
改めて織田信長の凄さを実感する動画でした
大変面白かった。勉強になりました!
歴史ドラマを否定するつもりは毛頭ありませんが、嘘も百回言えば真実になるという偉人の言葉が頭に浮かびました。馬防柵の後ろから鉄砲を浴びせ、あれよあれよという間に武田勢がやられてしまう。数々の映像作品で何度も何度もそんなシーンを観て、それが当たり前(真実)のように錯覚していました。歴史ドラマの考察がこんなに面白いと思ったのは初めてです🎉🎉🎉
金床戦術をよんで、鉄砲で包囲戦を行ったであろうとのことですが、その場所から当時使われた弾丸などは見つかっているのでしょうか?
本編解説でもコメントさせて頂きましたが、開けた南側を側面迂回しようとするのは、妥当性あると思います。ただ、乃至先生が仰るほどは、食い込めなかったと思います。根拠の1つは、この図に出てくるレベルの武将が戦死した地と言われてる場所がほとんど撤退路線上に分布しているからです。もう1つは本来なら豊川まで作るべき馬防柵がこのあたりにない事です。これは、誘いと考える事も出来ますが、むしろ湿地帯で柵が作れなかったのではないかと思います。それで迅速な移動も展開も難しくて狭い道上での消耗戦の末に予備兵力も尽きてしまって戦線崩壊したのかなあと思います。
先生のお話のように、上杉謙信が織田信長に指示を出す関係であったか、長篠合戦が謙信の要請によって行われたかは別にして、金床戦術は、とても合理的に説明できますね。武田の敗因は、馬防柵前で織田鉄砲隊により全滅したというより、別働隊(馬防柵のない横から攻めた部隊)も戦況を打開できず、敗退したということです。戦力に長けた武田軍が、一方向の戦いに注力していたのが、ずっと不思議だなあと感じていた私は、非常に納得できました。この動画と共に、レキショックさんの”長篠の戦いの真相”を見ると、とてもよく分かります。短時間で簡潔にまとめられているので、頭に入りやすいですよ。
先生とても解りやすい解説ありがとうございます〰️歴史の深さがありますね上杉謙信が裏で関係してたんですね😅
当時の軍略家、軍師が現代に甦って来たかのような分析でした。
昔の教科書って、”武士は愚かな存在”みたいな描かれ方してると感じてた
元寇でも名乗りをあげてたら爆弾で虚を突かれてやられたとか
虚を突かれたとしてもそれは一回でわかるんだから反撃もするだろうに、その後の展開なんかには一切触れずに神風で終わり
長篠の戦いでも武田軍は無謀な突撃したら三段撃ちでやられたって、その三段撃ちも疑問視されてたのになぜか「無謀な突撃」に関してはフォローもない
歴史とかよくわかってない子供の頃でも不思議だったよ
いつも2回は動画観てたのしんでますがらこの動画はめちゃくちゃ楽しくて何回も観てしまいました。
乃至先生の素晴らしい解説ありがとうございます。偶然にも回り込み作戦構想は私もいけるのでは?と思いましたがその後の敗走をさせる後方から一斉射というある意味。正面攻撃
─回り込み誘因攻撃ー敗走攻撃と長篠方面からの包囲攻撃が待っているという『三段構え』があったのなら『根切り作戦』といえる作戦だったんだんだろうと思います。三方ヶ原合戦でよりさらに高度な展開を想像できて楽しかったです!MR武士道さんもありがとうございました!
大変納得がいきました、仮に本当はそうで無かったとしても、今までの疑問が解けた思いです。
実際現地を歩いてみて、織田方からみて右翼に名だたる武将の墓があり目立たない農家の裏にも墓が点在していました。多くの兵が散らばって勝頼を逃がしたのでしょう。
痛ましい総崩れの様子がわかりました。ありがとうございました。
いやいや
大河でも「うわー」と単に突撃して瞬殺されてましたよ(笑)
今までの大河でも一番弱い勝頼でした
確かにそうだしだからこそ信長が勝頼が突撃してくる様ならうつけか或いは、、と言った事とか信長が家康に対して「勝頼には油断するな」と言った事すら滑稽になってしまった。
戦いは俯瞰出来る者が勝つを地で行ってますね。
兵と物量の多さを十二分に生かした戦い方ですね
敵に勝てるチャンスをちらつかせながらクロスファイアポイントに誘い込む
信長はやはり名将です
ちなみにどうする家康は無謀な突撃を繰り返してる従来説でしたね
さすがに三段撃ちはないってのは取り入れてましたが
10万人に鉄砲1万挺 当時の日本でそこまでの動員と補給が出来る信長の経済力と、釣り出し殲滅を成功させる戦略 恐るべしですね
鳶ヶ巣山砦への進軍は地元の人間に道案内をさせたにもかかわらず、雨で足場が悪くて時間がかかったと言う話は伝わっています。
織田軍の兵力10万、鉄砲1万挺説は驚愕しました。
メチャクチャ興奮しました!これまでの、どの説よりも説得力を感じました。
そもそも負ければ命を失う戦争で、情緒だけで語るのは無理がありすぎます。
これまでの歴史家は、いったい何をしていたんでしょうか?考えが浅すぎるし、脳みそが足りないと言わざるを得ません。
いままで聴いたなかで一番説得力がありますね。すごく面白い。
乃至政彦氏、存じませんでしたが深い考察に引き込まれました。
いろいろな動画解説がありそれぞれが素晴らしいと思いますが、今回の納得感は大きいです。
私自身武田の突撃はなかったと思っていました。
昔の歴史本などにも鉄砲よけの竹束を使って城攻めを行っていたと解説されており、城と同等の馬防柵(砦)に自殺的な突貫を行うのは不自然に感じています。
連合軍は数を少なく見せていたという見方は彗眼だと思います。
乃至氏の解説通り、馬防柵への突撃はあまりされておらず、鉄床戦術を用い迂回して横から攻撃したと考えた方が理に適っていると考えます。
そこで織田徳川陣地に引き込まれ待ち伏せ(鉄砲数千丁)をくらい、侵攻隊が損害を受け後退。
そこから武田軍が撤収という流れだったのではないでしょうか?
※小牧長久手の秀次軍の結末に似ていると思います。
武田は長篠口からではなく、殿を置きつつ別方面から落ちて行ったのでは?
自分の想像ですが、
勝頼の損害は大きくはあったと思いますが、甚大でもなかったのではないかと思っています。
ですからその後の攻勢があったと思いますし、徳川も圧力をかけられたということになる。
撤収は見事になされたと考えたりします。
歴史好きで、どうする家康も、見てます。織田信長大好きです。
有言実行する信長は、凄いと思います。
桶狭間の戦いもそうだし、長篠の戦いで、勝利した信長徳川連合軍だけど、武田信玄だったら、また違った戦いになってたかもしれない。見てみたかった。
信長鉄砲隊対武田信玄騎馬隊の一騎打ち。互角かな?
武田信玄も織田信長も、一枚上手だったんだね。
武田信玄途中で、死なずに信玄だったら、この戦い方は、見破ってたかもしれない。
勝頼まだ若くて、まだ経験が浅かったので、脇が甘かったのかも、しれない。
織田信長、上杉謙信、武田信玄が、長生きしてたら、歴史は、変わってたのかも、しれない。
3人とも戦国時代と言う波に、翻弄されたんだと思う。
いいね、ありがとうございます。
これからも配信楽しみにしてます。
たしかに、歴史は、現在生きている人が居ないから、確かな確証がないことが、多いですが、それも含めて、歴史特に戦国時代は、面白いですね。
織田信長が生きてたら、豊臣秀吉や徳川家康が天下とること無かったし、秀吉がやった朝鮮出兵も、信長なら、また違ったかもしれないですね。
まぁでも徳川家康が居たから、今の東京が首都になりますからね
映画やTVでは、馬防柵に突撃する武田軍を定番のように描いているが、歴戦の強者ぞろいの武田がそんな自殺行為をするわけがないと思っていた。 先生の解説に納得しますが、結局は勝頼が情報戦をおろそかにして、信長の布陣や動員兵数を見誤ったのが最大の敗因だと思います。おそらく馬防柵を迂回し、武田が突撃しても、その進入路は狭く、それこそ織田徳川の思うつぼだったのかもしれない。
解説分かりやすい
信長自ら来るとは秘策があると読んで撤退を進言した歴戦の武田家臣団はすごかったな
ストーリー的にはかなり説得力があるなあ。
寡兵が馬防柵を作って積極的に攻めないのは、鳶巣山から注意をそらして武田本隊を引き付けるため。
その鳶巣山が落ちたことで武田は別動隊の存在に気付く。
別動隊があるということは、本隊が想定より手薄の可能性がある(そうとも限らないけど)。
そうなると撤退より突撃の選択肢も出てくるし、攻めるなら側面を崩すのは常識。
側面を狙うために機動するのはまさに騎馬隊の役割……と繋がってくる。
馬防柵を家康側の山の下手の部分に設置しなかった謎がこれで説明がつき目から鱗が落ちました(^^)
我々は「長篠」「馬防柵」「鉄砲」と聞くと「騎馬や槍兵対策として馬防柵の背後に鉄砲を集中配備したんだろうな」と信じて疑わなかったし、おそらくは当時の勝頼も他の武将も同じように考えたはず。まさか「そっちは敵の引き付け役でしかなく、実は本隊にもたっぷり鉄砲を配備してました」なんて戦術は思いもつかなかった。でも信長の財力と堺商人との密接な関係、その堺商人を通じて海外から広く弾丸・弾薬輸入が行われていた事実を考えると、まったく夢物語ではないんだよなあ。
よくある通説だと「家臣と不仲で血気に逸る勝頼、それを信長が大量の鉄砲で一方的に倒した」と「なぜか百戦錬磨の武田の重臣が撤退もせず大量に討ち取られた」という矛盾が多いものですが、両家とも情勢を考えると疑心暗鬼な中で必死に判断した結果だというのが考えられました。
特に暗君と言われがちな勝頼が家臣の能力を信頼し状況に合わせ決戦をしかけ、それを織田徳川が大量の兵士と鉄砲を隠して誘い込み包囲殲滅したというのは説得力があり面白かったです。
合戦一つとっても情勢や武将の心情、地理的要因など様々な面から考察できて興味深いですね。また機会があれば先生のお話を伺いたいです。
8時間繰り広げられたとも言われる合戦について、実像に迫る解説ありがとうございました。
一点、信長が実際その大軍を隠し切れたか(武田方の偵察が機能しなかったのか)についてはまだ疑問の残るところという気がします。
信長からしたら、上杉が動いてくれると信じていたので長期戦想定して戦術を練っていたと思う。
長篠城への迂回攻めの成否を待ってから行動する余裕はあったよね。最大、上杉が後方を攻めたタイミングで総攻撃をねらっていたかもしれん。
戦いでは、相手の側面を取るのが定石だから武田が機動力を活かして側面攻撃するのもわかるし、兵力で上回る織田兵が相手の側面攻撃に対応できるのもわかるし、織田勢が相手の側面攻撃失敗したのを見たら予備兵を総動員して両サイドから包囲殲滅に一気に動くのも理解できる。
朝倉が滅亡した時も、信長の一気果敢な攻勢で全滅させちゃってますから、信長って勝機を見抜く才能がすごいと思う。
歴史の、学者さんとお話初めて、長篠の戦いの話詳しく教えてくれるからために、なりそうです。ありがとございます。私歴史得意だけど、詳しく話を聞くのが初めてです。
すっごいおもしろい!
勝頼は無謀な突撃を繰り返すだけの愚将ではないと分かったけど、それ以上に信長が強すぎた・・
面白すぎる。
囮役がいて、もしくは誘われて一箇所に集めて全包囲一斉射撃は敢行されたと思います。
長篠の戦いは、平山優先生と藤本正行先生の説がかなり違ったりして個人的に興味深い。
新東名高速の新城インターからすぐですから、滅茶苦茶訪れるのが便利になりました。
信長公記でも、勝頼が防御に切り替えればなんということもなかったと書いてある。やはり、前回の成功例に影響され過ぎた。人間としては普通に起こること。
この解説通りなら三方ヶ原のやり返しみたいな戦術ですね。引き込んで大軍が待ち構えてるなんて。家康からしたらニヤニヤがとまらんでしょうね。
とても興味深く拝見しました。ありがとうございます。去年、家康本陣跡南側にある中学校の体育館の基礎を掘ったら、武田側の兵の白骨遺体が出てきたというニュースを聞いていたので、武田も一矢報いていたんだとワクワクしました。基本的な質問で申し訳ないのですが、馬防柵の南の端はどの辺りまであったのでしょうか?
現地の案内板では、現在のJR飯田線の線路あたりくらいまでとなっています。そこから豊川までは比較的平坦な地のようですが、一応、砦のようなものはあったようです(川路城、小川路城)
イメージだと、この長篠合戦が終わると、すぐに天目山が始まって、天目山の勝利をもって本能寺の変が起ってすぐに織田信長がしんじゃうイメージだけど
最近売られている信長公記の翻訳したヤツだと、長篠の戦いが大体半分ぐらいなんだよなぁ…
学校の教科書だと長篠の戦いで武田は滅びましたみたいな書き方ですもんねー😮
なるほどね。北側の方では馬場が場防柵の裏側に回り込んでたという話は聞いたことがありますね。
この話を聞くとドラマでもそれなりに最新の研究を反映させてたのかなと思いました。
ただ、やっぱり騎馬突撃と三段撃ちは男のロマンで描かずにはいられなかったんですね 笑
先生の説に賛同いたします。三段撃ちの有無は問題では無いですよね
不可能と検証は間違いだと思いますが、可能だから絶対長篠で行ったとも言えませんしね
漫画センゴク の考察も先生のカンに
近い考察されていました。
3万と10万を誤認するレベルの会戦ってあったのだろうか?ちょっと疑問
上杉謙信の武田、北条連合、最強じゃん
天正2年と言えば信長が比叡山を焼き払って将軍を追い出した直後
自分が崇拝するもの二つを蔑ろにした信長に大して謙信が義によって結びつこうとしてたとは思えない
NHKの歴史大実験では、3段撃ちを やると ブランクが 空きすぎて、騎馬突撃が 馬防柵に 達してしまう。だから、号令に合わせて 一斉に撃つのではなく、各人が 弾込めし、でき次第 撃つ方が 連続的に 弾幕が張れる という 意見が あります。
面白すぎた
信長強すぎて惚れる…カエサルとか、アレキサンダー大王とかと同じ次元の武将だと思います。
単に鉄砲で撃たれて死ぬだけの戦いで8時間もかからない。
確か信長が勝頼は戦が強すぎたから負けたみたいなこと言ってましたね。
逃げたら一つ、進めば二つ!前に出るしかなかった
こういうところを観たいのよ
それを有耶無耶で済ませるから
違和感しかない
合戦に力点をおかないなら
戦国時代を扱わないで欲しい
この見方だとヤンマガ連載のセンゴクでもこの流れ方で描いているね
こんな高度な戦術的駆け引きがあったとは...
これ桶狭間以上に天才的な戦術じゃないか?
あの状況で撤退はどう考えても追撃を受けて武田軍壊滅待ったなしだと思います。
我々は織田軍数的有利だと分かっていますが、勝頼からすれば織田軍は立てこもっていて少ないんだろうから勝てるんじゃねと思ったのでしょう。
確かに、兵が窪地に隠れていたから織田の援軍が多くても織田・徳川軍の総数は二万ぐらいかも?って思わされたんでしょうね。
三浦の笠懸を見ると馬って繊細な動物なので鉄砲の音に怯えて突撃なんて出来るのかなぁとか思ってしまいます。
現存する在来馬は事故防止のため大人しい性格に調教されたものたちの血統なので、「繊細な性格になっている」だけです。ブリードによって気性の荒い馬は淘汰されています。これは木曾馬牧場のオーナーから聞いた話です。
また戦国時代の馬は去勢もされておらず、文字通り暴れ馬だったと考えられます。鉄砲の音でひるむどころか、突っ込んで行ってもおかしくないのかなと私は思います。
特に、政治面で上杉との関係に注目したとても有意義な解説でした。
ありがとうございました!
ただ、途中で武士道さんも質問していましたが、結局なんで上杉は気が変わったのか、その理由は議論されず、腑に落ちていません、、
ご説明のとおり、義昭の追放後、織田との同盟を継続したのは、幕府の権威より武田への攻撃を優先したからだと思いますが
その後、義昭の懐柔で気を変えたのなら、結局武田の攻撃は諦めて、幕府権威を優先したことになると思います
でも、上杉にとって織田は現実的な利害関係の不一致は特段ありませんし、隣接する武田の脅威の方が依然大きく、過去の経緯から義昭の権威下で武田と現状維持を保てる、保ちたいと思って妥協したとは信じがたいです
上杉がどういう背景で旧体制の保守を優先したのか、有識者の方にぜひ教えていただきたいです
納得のいく推理だと思います。設楽原ではあまり銃弾が出土していないという話があ
りますので、激戦地と思われるもっと南方を捜索してみては如何でしょうか。
信玄は78%の勝率があれば戦うが勝頼は72%の勝率があれば戦う。この差が運命を分けたな。
鉄砲3千も無かったとかいう話は聞いたことがありますが万というのはとんでも論に聞こえます
ましてや織田側だけで10万の兵となると隠れて布陣できたのか疑問に思えてしまいます
勝頼は諏訪から出て来たけど、信玄なら甲斐から出てくる。
甲斐から出て来るルートだと、鉄砲隊を配置する場所が選びにくくなる。
織田信長の鉄砲で皆殺しはあってた
織田陣は少なくとも見かけ上には横列の陣形ですから、武田軍が側撃を試みて横に回ったとするのは寧ろ当然で、これまでどうしてそうしなかったのか解説が無いのが不思議でしたから腑に落ちた所もあります。
一方でこの動画での御説明にはやはり不明な点も有ります。
武田軍が思い切って二手に別れて北側に取り付かなかったのは何故でしょう?
中央が開いて長篠城に織田方が進んでも長篠城の守備隊には加勢する余力は無かったでしょうに。
織田軍は馬防柵の前から馬防柵の後ろにどうやって逃げたのでしょうか?
馬防柵に切れ目をつけていたのでしょうか?
突破力を生かしての突撃なら、武田家は横へ広げるよりは、縦に厚みを出し、一点突破した方が良かったのか?
言い伝えだと、何か勝頼の陣から最前線が離れただ時をが過ぎていく感じがするが、織田徳川方の見方だと武田の突撃力の強さに予備兵力を投入せざるおえず逐次対応している印象を受ける。
まぁ謙信と信玄両名が織田徳川本陣構えを見たら、絶対的に対決を避けたと思いますね。
徳川軍の後ろから回って包囲されて、、という話は聞いてはいましたが、ホワイトボードで実際に説明いただいたのでその惨敗の様子がよくわかりました。
そして謙信のたぬき親父っぷり!笑 少なくとも黒幕ですね。楽しく拝聴できました。有料レベルです。
謙信にも興味が出てきたので、先生のご著書、読んでみたいです。
ミスター武士道仰る通りだと思います。
織田軍は鉄砲、弓、槍、馬房柵のセットで戦ったと思います。
武田勝頼はやはり突撃したと思います。
織田信長の策略で、勝頼にわかる様に、長篠城救援隊を送って、織田軍を手薄にして、更に、左右に五千の大軍を移動させて、勝頼を包囲にかかったと思います。
勝頼からすれば、自軍を包囲する為に、敵は、明後日の方向に大軍を動かし、信長本陣前には柵と、僅かな鉄砲隊など、当に桶狭間、天から降った好機だったと思います。
しかしながら、実際突撃すると、鉄砲、弓、槍、柵と攻めあぐねて、織田軍はヒットアンドアウェイして、次の柵に逃げ込むので、武田軍は消耗しながら進軍して、いるうちに、左右から、完全に包囲されて、長篠城が解放され、背後を取られ、柵に入り込んだせいで逃げる事もできなくなったと思います。
真田丸の上田一次合戦のあの状況です。
合戦は,勝頼が賛成 重臣が反対 →大敗 撤退戦 →織田,徳川に大損害をあたえる 勝頼 = 無能 重臣 = 有能 の構図 おかしくないか ? 実際 合戦での被害数と撤退戦の被害数の検証は,出来ないでしょうか ?
逆に山県昌景や馬場信春、内藤昌豊達が決戦を積極的に主張したという説もあるらしいです。
武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多いらしい。
そんな彼らが東美濃侵攻でまともに戦っていない+守護代の家臣筋という素性が怪しい織田や、三方ヶ原で破った+三河の土豪上がりという同じく素性が怪しい徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか?
当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制。 そんな中で諏訪からの出戻りで正式な官位もなく、信玄からの権威付けや権力移譲が不十分な勝頼が決戦を強行なんてできるのか? むしろ決戦は重臣達の総意で決まったんじゃないのか?という話です。
この戦法をもし本当に信長自身が考えたなら凄いが、それは無いと思えるのです 信玄には山本寛助 謙信には宇佐美 秀吉に半兵衛と官兵
と考えると信長の軍師的な者が考えたのではないか? そして私がずっと疑問だった信長の軍師は誰?という事 でも信長には秀吉 光秀 勝頼 丹羽長秀 滝川一益という重臣たちが居るので信長自身には軍師はいらないのかな 大河などではこの長篠の合戦を任されたのが明智光秀?になっている事を考えると、この策を考えたのは光秀になるのかな? それにしてもこの解説は本当に面白かった
In other words, Katsuyori wanted to do a manuvuer that allows him to defeat his Nobunaga/ Tokugawa forces in detail. but they were ready in ambush and in far larger numbers
横に広がらないで、馬防柵の末端から侵入して攻めれば勝機あり?
負けたのは事実だし、真田にも頼らなかったし名将とまでは言えないと個人的には思います。
また期間が短かったので、諸将を抑えるだけの人望も発揮できず、
敗けを認めるのがむずかしかったのではないかと思っています。
素晴らしく説得力のある解説で感服しました。命中率が低く先ごめ式の鉄砲より大量の弓で打ち掛けたほうがよほどつるべ打ちになるでしょう。
信長は戦上手の前に情報戦に長けていた。兵数を少なく見せたり攻める気がないと思わせたり。敵将の調略もしかけていたはずだから「桶狭間の再現をやりましょう」と勝頼に唆した者がいてもおかしくない。武田武将の敗死地が新城市内広域に点在するのも追撃戦で殺されたと考えれば納得いきます。本買います
乃至政彦先生説が正しいとすると、武田は織田・徳川の兵力を正しく察知していればこの長篠合戦は避けることができたとなる。ごまかせた織田の作戦勝ち??さあどうでしょうか、武田の情報収集が甘すぎたかな。
包囲殲滅に際して三方から鉄砲を撃ちかけられると、二方は向かい合ってるので同士討ちしそうな気がします。
おそらく山上から下に向かって撃つので、その心配はあまりないかと思います。
センゴクの長篠と一緒だ。
それは、織田軍が千丁以上の鉄砲を持ってると思って無かった!
自分達の鉄砲で考えたやろ!
射程距離と玉詰めの時間をね!
だが、多分織田軍は最新の鉄砲で、射程距離は長いし、玉詰めも速かったやろ!
だから、一発撃ってから突撃したんじゃないか?
2:00 武士道さん、痛そう
どう見えていたのか? どの位 隠れているか 分からない武田軍だろう。 一点 突破を考えていた城攻め ではないか? 徳川勢を切り崩す作戦、鉄砲が途切れたら 突撃 が定番なのだろう。 繰り返して 消耗した武田軍。負け始めて 殺戮状態で 大敗北ではないか?